光明皇后と悲田院・施薬院
皇室と日本赤十字社の関わりは深く、雅子皇后陛下が現在の日本赤十字社の名誉総裁でいらっしゃることは、すでによく知られた事実です。しかし、日本の皇室の社会福祉活動は、日本赤十字社が創立されるよりも遙かに昔から行われてきたことであり、赤十字へのご支援は、そのごく一部に過ぎません。皇室の社会福祉活動の歴史は古代に遡りますが、歴史的に確実な記録が残っている最初の活動は、私が尊敬してやまない、奈良時代の光明皇后に遡ります。
光明皇后は、奈良時代に東大寺を建立したことで有名な聖武天皇の皇后です。大変多彩な才能に恵まれた方だったようで、聡明で、慈愛に富み、仏教を信仰されていました。私は、毎年秋に奈良で開催される正倉院展に行くのを楽しみにしていますが、正倉院の宝物は、そもそもこの光明皇后が聖武天皇の遺品を寄付したことから始まっています。写経の創始者でもあり、達筆で知られています。王義之の「楽毅論」を臨書(手本を見て字を書くこと)されたものが正倉院に現代まで保存されており、賞賛されています。興福寺の五重塔や西金堂、新薬師寺を建立し、各地に国分寺を建設する原案を出したのも光明皇后であったと言われています。
光明皇后が本邦における社会福祉活動の先駆けとして設立されたのが、悲田院(ひでんいん)と施薬院(せやくいん)です。723年(養老7年)、皇太子妃時代の光明皇后が奈良の興福寺に悲田院と施薬院を創設したという記録が『扶桑略記』に残っています。
悲田院は、貧困者や孤児などを収容する福祉施設であり、現代の養護施設に近いものでした。最初に興福寺内に建てられ、その後、東大寺などの各寺院にも設置されました。
施薬院は、貧困な病人を保護し、治療や薬物の提供を行っていました。現代の病院あるいは療養施設に近いものでした。諸国から提供された薬草を無償で患者に施していたと伝えられています。東大寺正倉院には現在でも古代の薬が残されていますが、当時は正倉院所蔵の人参や桂心などの薬草が(今では国宝級の遺産ですが)光明皇后の指示で提供されたことがわかっています。施薬院は光明皇后崩御後も継続され、平安時代には京都に移されて維持されていました。
奈良の法華寺内には、光明皇后の発願により建てられたとされる「浴室(からふろ)」が遺っています。これは病気療養者のための入浴施設で、「庶民施浴」のために建てられた極めて珍しい浴室として、国史跡重要有形民俗文化財となっています。「光明皇后自らが千人の病人の垢を流した」との伝説が残っています。「日本の看護を開いた」と称される所以です。慈愛に満ち、マルチタレントな光明皇后の偉業の数々は、とてもここに書き切れるものではありません。ご興味をもたれた方は、是非、ご自分で調べてみてください。
ところで、赤十字には、私が光明皇后に驚嘆するよりも遙かに昔から、光明皇后の偉業を認識し憧れる人達がいたようです。以下の写真をご覧ください。これらの絵は、いずれも日本赤十字秋田看護大学・短期大学の図書館にてどなたでもご覧いただけるようです。
右は大正期に開院した秋田赤十字病院時代からの「ナイチンゲール像」、左は秋田赤十字看護専門学校卒業生により昭和18年に寄贈された日本の看護を開いた「光明皇后像」。描かれた経緯は異なりますが、奇しくも両作品とも高橋萬年氏の作です。学生が手本にする看護師像を象徴したものとして、以来「一対の額」として受け継がれ、看護・介護福祉を志す学生たちを見まもっています。(同大学ホームページより引用)。