新副院長自己紹介 渡邊俊之

ホスピタル

ごあいさつ

このたび、9月1日付で副院長を拝命いたしました渡辺俊之と申します。私は1989年に金沢大学を卒業し、関東逓信病院(現NTT東日本関東病院)での4年間のレジデント(研修医)を経て、1993年4月に当院外科に着任しました。いつの間にか31年以上の年月が流れ、新任当時は30歳だった私も還暦を過ぎ、当院の最古参医師になってしまいました。人生の半分以上を大森赤十字病院に身を置いており、この病院を愛する気持ちでは人後に落ちないと自負しています。

「君は町医者になりなさい。」レジデント時代に外科医としての基礎を叩き込んでくれた関東逓信病院の外科部長は、そう言って私を送り出してくれました。“町医者”という言葉は今では不適切用語とされていますが、私はこの部長の教え通り、「町医者の外科医」として長年この地域で頑張ってきたつもりです。大学に残り学位を取得する道からは外れましたが、当科には東京大学第一外科から多くの先生が交代で着任され、この先輩たちにしごかれながら手術の腕を磨くことができました。指導を受けられない手術も、手術書を繰り返し読んで独学でこなしてきました。いわゆる“切った張った”の開腹手術を多く手掛けてきましたが、今や外科手術は腹腔鏡、そしてロボットによる低侵襲手術が主流となっています。当科がさらなる発展を目指すには新しい人材が必要と常々思っていましたが、幸いこの4月から、腹腔鏡、ロボット手術のスペシャリストである大腸専門の日吉雅也部長、上部消化管専門の浦辺雅之部長、そして乳房再建も手掛ける乳腺外科の岩本美樹部長、とびっきりの3人が当科に着任しました。私は引き続き外科部長も兼任いたしますが、これまで通りの診療業務を継続することは難しくなると思います。しかし今後はこの3人がスタッフをリードして頑張ってくれますので、全く憂いはありません。医療安全推進室長として安全管理が私の最も重要な仕事となりますが、橋口病院長の補佐として病院全体の運営に関わり、当院そして地域医療の発展のために誠心誠意、力を尽くしたいと存じます。何卒よろしくお願い申し上げます。

自己紹介(金沢での学生生活)

大阪で生まれ、名古屋、東京、横浜で育った私は、大学は絶対に地方に行こうと心に決めていました。美しい金沢で青春時代の貴重な6年間を過ごせたことは、私にとってかけがえのない財産となっています。

つい先日の8月末、金沢大学の和田隆志学長による、能登半島地震被災地の復興に向けた対応など、オール金沢大学で社会に貢献しようという熱のこもった講演を聞いたばかりですので、自己紹介を兼ねて金沢の思い出話をさせて頂こうと思い立ちました。

当時の金沢大学はお城の中にキャンパスがありました。金沢に旅行に行かれた方はご存じと思いますが、現在の金沢城公園の中に大学があり、重要文化財の石川門が大学の正門でした。大学の門を出ると目の前は兼六園という最高のロケーションでしたが、私が卒業した年に金沢市郊外に移転し、国立大学では2番目に広い敷地を有するキャンパスとなっています。

(画像1)金沢大学の正門だった金沢城石川門
(画像1)金沢大学の正門だった金沢城石川門

家計に余裕はなかったので、6年間を全学の寮、北溟寮で過ごしました。国に収める寮費、つまり家賃は月300円、夕食も1食300円くらいでした。パサパサのご飯は炊夫さんに聞いたところによると「古古古米」と古が3つ付くお米でしたが、どんぶり1杯たべることができました。男300人ほど、6畳程度の居室は基本2人部屋で、一人分のスペースはおよそ2畳でした。定員割れしていましたから3回生くらいになると一人部屋をもらうことができましたが、汚さ、うるささはご想像にお任せ致します。入学式の3日ほど前から寮での合宿があり、各階にある和室に新入生は押し込められ、恐ろしい“歌唱指導”が待ち受けていました。食堂に裸足で整列させられ、旧制四高の寮歌など1日に2曲、3日間で6曲の歌を、先輩たちを満足させるように歌えるまで終わりませんでした。19時から始まって午前2時頃までかかり、それが終わるとビールケースの台に上がって一人ずつ自己紹介をさせられました。3時過ぎにやっと寝て7時過ぎにはまた起きて、大学のオリエンテーションに行きました。この3日間の合宿を乗り越えないと自分の部屋が決まらないという恐ろしいシステムで、こんなところでは暮らせないと途中であきらめてアパートを探しに行く新入生も結構いました。アパートを借りる金がない身にとっては、ひたすら耐えるしかありませんでした。

(画像2)寮の廊下
(画像2)寮の廊下
(画像3)私がかつて住んでいた部屋(卒業して27年後)
(画像3)私がかつて住んでいた部屋(卒業して27年後)
(画像4)閉寮時に食堂に掲げられた旗
(画像4)閉寮時に食堂に掲げられた旗

マンション住まいの友人達をうらやましく思いながらも、にぎやかで楽しい寮生活でした。あの時代だったからこそ経験することができた学生生活だったと思います。勉強するには良好な環境とはとても言えませんでしたが、同期の医学部生4人で励まし合いながら、卒試、国試を乗り越えることができました。アルバイトもいろいろやりましたが、金沢ならではのバイトとしては農家泊まり込みのスイカの収穫、冬の味覚「かぶら寿司」の仕込みなどもやりました。バイトではありませんが、夏は富山県立山にある金沢大学山岳診療所に寝泊まりし、トイレ掃除、荷物運び、診療の手伝い、富山県警山岳警備隊員の手伝いなどの合間に山歩きを楽しんでいました。

金沢には二つの川が流れています。金沢城の東に浅野川、西に犀川が流れていて、私の寮は大学から犀川を越えたところにありました。

うつくしき川は流れたり 
そのほとりに我は住みぬ

春は春、なつはなつの 
花つける堤に座りて

こまやけき本のなさけと
愛とを知りぬ

いまもその川ながれ

美しき微風ととも 
蒼き波たたえたり

室生犀星「犀川」

この美しい川を6年間渡って通学しました。徒歩では大学まで30分以上かかる道のりでしたが、趣のある街並みと美しい川を眺めながらの通学は全く苦になりませんでした。

金沢で学生生活を送れたことは、本当に幸せであったと思っています。

能登半島にも友人たちと何度も行きました。金沢駅から始発の汽車に乗って輪島の朝市にも行きましたし、軍艦島とも呼ばれる見附島にも行きました。美しい風景と美味しい海の幸に恵まれた彼の地が、1月1日の地震で甚大な被害を受けたことは悲しみにたえません。お亡くなりになった方々のご冥福を心からお祈り申し上げますとともに、一日も早い復興を願ってやみません。

副院長兼外科部長 渡邊俊之

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副院長 兼 外科部長 渡邊俊之 1989年に金沢大学を卒業し、関東逓信病院(現NTT東日本関東病院)でのレジデント(研修医)を経て、1993年4月に大森赤十...

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